その昔、この地には京の都から配流された紅葉という美しく高貴な女性がいました。
里長はなにかと京を懐かしむ紅葉の心を察してこの地に加茂川、東京、西京、高尾、二条、四条などいずれも平安の都から名を取った地名をおき、紅葉をなぐさめました。
しかし紅葉は、やがて悪者達に担がれて盗賊の首領となり荒倉山に移り住み、旅人を襲って豪勢な暮らしをするようになりました。
人々は紅葉を鬼女と呼ぶようになり、そのうわさは遠く京の都にまで知れ渡りました。
朝廷は平維盛に鬼女征伐を命じ、苦戦の末、ついに紅葉狩りを果たしたといわれています。
それまで水無瀬と称していたこの地は、以降鬼の無い里、すなわち鬼無里と呼ばれるようになったということです。
戸隠の西方の山中に岩下という人里があります。その里の近くを流れている裾花川のほとりの西に「機織石」と呼んでいる大きな岩があります。
それはちょうど、機織りの時の使う道具の「杼石・箴石・ちぎり石」にそれぞれの形が似ているところから名付けられたものだそうです。
それらの名は、雨が降りそうだという天気状況になると、カラカラと音をたてることがあって、その音が、機を織るときの音とよく似ていることから、土地の人たちは「機織石」と呼ぶようになったと伝えていて、この音が聞こえると、晴れていた空もいつのまにか曇ってきて、二、三日のうちには、必ずといってよいほど、雨が降ったということです。
※これは天保5年(1834年)に佐久臼田の井出道貞が書いた
名著「信濃奇勝録」に紹介されている信州の代表的な伝説の一つです。
昔むかし、天武天皇は信濃遷都を計画し、三野王、小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わしました。使者は信州各地を巡視して候補地を探し、水内の水無瀬こそもっとも都にふさわしい地相をそなえた山里だということになりました。そこでこの地の図を作ってたてまつり、天皇に報告しました。
これを知った土着の鬼どもは大いにあわて、「都など出来たら俺達の棲み家がなくなってしまう」「都が出来ぬよう、山を築いて邪魔しよう」と、すぐさま一夜で山を築いてしまいました。
これでは遷都は出来ません。鬼を憎んだ天皇は、阿部比羅夫に命じて、鬼どもを退治させました。
この時から、この山里に鬼は居無くなり、鬼無里と呼ばれるようになりました。